6世紀後半の規模の大きい古墳「加牟那塚」
水道みちを北西に向かっていくと、道沿いに家が建ち並ぶなか、こんもりとした加牟那塚古墳があります。
金塚、あるいは釜塚ともいわれ、高さ7mあまり、直径40mの大きさは、6世紀後半の東日本で規模の大きなものであり、県文化財に指定されています。
塩澤寺の地蔵堂の前から、南アルプスを望むとこの加牟那塚古墳が住宅地のなかから、頭を出している姿が見えます。石室は、横穴式石室で人間が歩ける大きさがあり、入口から中を見る事ができます。 天井となっている数個の大きさの石には驚かされます。
加牟那はカムナと読みます。元々は高句麗(現在の朝鮮)の渡来人の書くカタカムナ(現在のカタカナ)が語源とか、また、カムナとはやはり高句麗の神の名であると聞いています。
何れにしても甲府の北部山岳地帯には、加牟名塚や万寿森古墳を代表とする積み石の古墳が多数存在し、石和の手前の横根町迄続いています。富山辺りから上陸した渡来人が山梨に来て、この辺りに多く住んでいたと言われています。
当時は現在の朝鮮半島が、大国高句麗と百済、新羅と別れる戦国時代で、挙って日本に渡来し、山梨県内でもこれらの勢力が入り争っていたそうです。そして甲斐の名称武田信玄を生んだ甲斐源氏の初代が源義光別名「新羅三郎」(しんらさぶろう)というそうです。
一説には近江の国の新羅明神で元服したのが名の由来とされていますが、ひょっとすると武田信玄の祖先は新羅(しらぎ)出身の武将だったという事もあるかもしれません。