悲劇の子良純親王住居跡(八の宮跡)
松元寺を出て、左折すると、旅館明治があります。
この場所は、江戸時代、徳川家光の治世1643年に、良純親王が流され、住居があった場所です。
良純親王(八の宮)は、御陽成(ごようせい)天皇の第8皇子です。天皇の怒りにふれて、都を追われて甲斐の国に流されました。一説には当時「湯島村」と呼ばれていた湯村は(湯ノ島とも湯志麻とも伝わっています)、「島」という字があると島流しのようであるから、この時良純親王を気遣って「島」をとって「湯村」に改名したとも言われています。この場所や興因寺(甲府市下積翠寺町)に住み、いくつかの詩歌を残したといわれています。
「鳴けばきくきけば都の 恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」
悩める文豪~太宰治滞在執筆の地~
太宰治が初めて湯村を訪れたのは昭和14年6月でした。結婚の翌年早々甲府に新居を構えてから、9月に東京へ移るまでの間です。 当時湯村温泉はいくつかの源泉をはさんで10軒ほどの旅館が建てられていました。小説「美少女」によると、
「湯村のその大衆浴場の前庭にはかなり大きい石榴の木があり、かっと赤い花が満開であった」「浴場はつい最近新築されたものらしくよごれが無く、純白のタイルが張られて明るく日光が充満していて清楚な感じである」と当時の様子を書いています。ここに描かれている浴場が「明治温泉」です。
甲府の在住の頃は数回来たに過ぎませんでしたが、東京へ移転後はたびたび来甲し湯村を訪れることになります。太宰が執筆のため「明治温泉」に逗留したのは昭和17年2月中旬~下旬、翌18年3月中旬の2回であったのはいくたの本に紹介されています。当時の「明治」は写真のような家構えで2階を客室に使用していました。太宰は向かって左主屋の最も眺望の良い一番二番の両室を占拠?していました(現在の双葉の間にあたります)。明るい二番の室で執筆し、床の間のある一番で寝起きしていました。太宰は朝寝坊だったらしいのですが、朝起きると必ず袴を着けて室に居たといいますから、通説どうりかなりハイカラだったわけです。当館の者は最初小説家だとは知らず、係の者に聞くと何か書き物をしているというので、かなり後になってわかったのです。旅館明治で執筆した小説は「正義と微笑」「右大臣実朝」の2編です。
昭和13年御坂峠天下茶屋に来て以来、山梨とのゆかりは深く、昭和20年には夫人の実家に疎開しましたが、間もなく全焼し、青森の生家へ帰ります。以後死ぬまで甲府を訪れることはなかったと思います。
喜劇「駅前旅館」のモデルは湯村にあり~井伏鱒二~
太宰治は師匠にあたる井伏鱒二の薦めで甲州湯村を訪れていましたが、実は井伏鱒二も湯村を大変好んでおりました。喜劇「駅前旅館」(森繁久弥・フランキー堺出演)は親友であった「常磐ホテル」(湯村温泉入り口)の初代社長「笹本吾郎」氏に聞いた話を題材にしたと言われています。
湯村温泉は太宰治の「黄村先生言行録」にもこんな形で登場している、「黄村先生」はもちろん井伏鱒二のことだけれど、名作「山椒魚」の裏話的な記述もある
それから四、五日経って私は甲州へ旅行した。甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃(たんぼ)の中の温泉であるが、東京に近いわりには鄙(ひな)びて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自らを閉じこめて仕事をはじめるということにしていたのである。
けれども、その時の旅行は、完全に失敗であった。それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子(しょうじ)の破れがハタハタ囁(ささや)き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい火燵(こたつ)にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジャンドンジャンの大騒ぎをはじめた。
悪い時に私はやって来たのだ。毎年、ちょうどその頃、湯村には、厄除地蔵(やくよけじぞう)のお祭りがあるのだ。たいへん御利益のある地蔵様だそうで、信濃(しなの)、身延(みのぶ)のほうからも参詣人が昼も夜もひっきりなしにぞろぞろやって来るのだ。見せ物は、その参詣人にドンジャンドンジャン大騒ぎの呼びかけを開始したのである。私は地団駄踏んだ。厄除地蔵のお祭りが二月の末に湯村にあるという事は前から聞いて知っていたのに、うっかりしていた。ばかばかしい事になったものだ。
私は仕事を断念した。そうして宿の丹前(たんぜん)に羽織をひっかけ、こうなれば一つその地蔵様におまいりでもして、そうしてここを引き上げようと覚悟をきめた。宿を出ると、すぐ目の前に見世物小屋。テントは烈風にはためき、木戸番は声をからして客を呼んでいる。 ふと絵看板を見ると、大きな沼で老若男女が網を曳(ひ)いているところがかかれていて、ちょっと好奇心のそそられる絵であった。私は立ちどまった。
「伯耆国は淀江村の百姓、太郎左衛門が、五十八年間手塩にかけて、――」 木戸番は叫ぶ。
伯耆国淀江村。ちょっと考えて、愕然(がくぜん)とした。全身の血が逆流したといっても誇張でない。あれだ! あの一件だ。
「身のたけ一丈、頭の幅は三尺、――」
木戸番は叫びつづける。私の血はさらに逆流し荒れ狂う。あれだ! たしかに、あれだ。伯耆国淀江村。まちがいない。この絵看板の沼は、あの「いかぬ老頭」の庭の池を神秘めかしてかいたのだろう。 それでは、事実、あれが「いかぬ老頭」の池に棲息していたのに違いない。身のたけ一丈、頭の幅三尺というのには少し誇張もあるだろうが、とにかく、あの、大――山椒魚がいたのだ! そうしていま、この私の目の前の、薄汚い小屋の中にその尊いお身を横たえているのだ。なんというチャンス! 黄村先生があのように老いの胸の内を焼きこがして恋いしたっていた日本一の、いや世界一の魔物、いや魔物ではない、もったいない話だ、霊物が、思わざりき、湯村の見世物になっているとは、それこそ夢に夢みるような話だ
文豪は湯治を好む~田山花袋~
「田舎教師」「蒲団」などの作品で知られる田山花袋は、数々の紀行文も発表している「温泉巡り」の中にも湯村温泉が評されているが、当時は温度が低く花袋好みの温泉ではなかったようでです。
「日本温泉巡り」にはこうしるされています。
甲府をさる一里のところにある湯村温泉は、湯は温いけれども沸かし湯ではないので、塩山温泉に比べると、余程良い。それはとても松本における浅間といったようなわけにはいかない。単に設備から言っても、とても及ばない。 しかし、甲府の人たちは、芸者などを連れてよくそこに遊びに出かけていく。芸者の出場しても、その温泉は、遠出にもならずに、甲府市内と同じ区域内になっている。
しかし甲府は暑いところである。或いは東京などよりも暑いかもしれない、したがって避暑に適している温泉場ではなかった。
怪奇小説を彩る挿絵画家~竹中英太郎~
江戸川乱歩シリーズなどの挿し絵を手がけた挿し絵画家「竹中英太郎」が、湯村山中腹にお住まいになっていたことは湯村の住民もほとんど知らない事でした。きっと神経を研ぎ澄ましてするお仕事だっただけに、身分をあえて隠して日常生活を営みたかったのでしょう。私も山に遊びに行くときには先生のお家の庭を通り抜けて、山の中を走り回っていました。又、姉は先生のお嬢様に子供のころ絵をご指導いただいたりしたのですが、有名な先生のお家とは当時まったく存じ上げませんでした。
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俳人飯田蛇笏と洋画家中村宗久を結ぶ俳誌「雲母」
山梨県出身の俳人飯田蛇笏はたびたび湯村温泉で句会を開いていました。
俳句雑誌雲母には当時の常磐ホテルや旅館千島(既に廃業)での句会の様子が数ページ渡って紹介されています。 その時の雲母の表紙を書いているがやはり湯村に住んでいた洋画家の中村宗久であり今でも宗久のご自宅はそのまま残っています。
雲母の書かれたエッセイにも面白く詳細に当時の湯村の様子が書かれています。「デブの女将に室の都合を聞いてみるとどれでもお気に召した室をとの」こと。 一階の涼しい12畳にしようか、それとも2階の明るい展望のきく部屋にしようかなどと悩んだりします。結局2階の9番の部屋に決まり、そこからの展望が詳細に記されています。 「西の窓に八ヶ岳の裾が間近に登美の高地を形成して、残暑の光を丘一杯に浴びて遥か駒、白根の雄峯が霞につつまれて絵襖でも立てた様だし、南の窓の下には植込みを隔てて打水のすがすがしい関屋往還か坦々として東西を貫き遥か東の方に府中の大きな建物が点在している。
往還上の家無き青田の辺りは甲府や御嶽へ往来する自動車がフワーと砂煙をあげている。前の青田を隔てた荒川堤の並木が重たく茂ってその彼方には櫛形山や、赤石山脈の嶺々が浮雲に遮られた薄ら日に緑も黒ずんだ容を現している。秋近き陽の色が音もなく迫って窓の手すりにあたっている」
画集の関東には、飯田蛇笏の4男である俳人飯田龍太氏の言葉が添えられています。 飯田龍太氏と井伏鱒二は大の釣り友達であり「飯田龍太の釣」という原稿が県立文学館にあります。こういったところから湯村に昭和の文人・画家が集まった時期があったのは、中村宗久の交友関係が元であったのかとも想像されます。