武田家縁の温泉 ~武田三代とその家臣~
武田家の先祖は源平の合戦の頃の、甲斐源氏の4代目であり新羅三郎義光の孫である源清光の次男源信義(後の武田信義)。治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨により挙兵した源頼朝と時を同じくして石和で挙兵して以来、水鳥の羽音を利用して戦わずして平家を追い払った富士川の戦いをはじめ、源義経の京都入り、木曽義仲の追討、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと主だった戦には殆ど参加した戦の達人である。そんな戦の達人を先祖にもつ武田三代もその血筋を見事に受け継いだようです。
源平縁の人として浅利与一という弓の名手が甲斐源氏の一人として登場します。源氏の日本三与一とは頼朝が蜂起した直後の石橋山の合戦で華々しく討ち死にする佐奈田与一、義経が奇襲で大勝する屋島の合戦で扇の的を射落とす那須与一、現在の豊富村に墓や祭りが残る壇の浦の合戦で「遠矢」で活躍する浅利与一を指します。
2007年の大河ドラマに武田信玄の名軍師として知られる山本勘助を題材にした井上靖の「風林火山」が決まりました。山本勘助は出生などにも謎が多い武将です。
「信虎築城の湯村山城」
信玄の実父。躑躅ヶ崎の館の上に要害山があり、後に信玄とライバル視される越後の虎「上杉謙信」からの侵略をいち早く察知するため、幾つもの狼煙台(烽火台とも)をつないでいました。その最後の狼煙台が湯村山山頂で当時は兵士の簡単な宿舎もかねた山城があったようです。北杜市に残されている信濃への軍用道路「信玄の棒道」も実は信虎が整備したと伝えられています。 近年では勝頼と同じく優れた武将、政治家であったと再評価されつつあります。信玄が生まれながらにして甲斐の領主であったのも、信虎が甲斐の国を統一し、外敵から守って良い家臣を集めたからであると言われています。
大変戦上手であった信虎は、1521年に駿河の福島正成が1万5千という大群で進軍して来た時、僅か2000の兵で迎え撃ち、これを破りました。この時本陣を置いたのが、湯村温泉にある千塚八幡神社で、福島勢と荒川を挟んで対峙しました。これを飯田河原の合戦と呼び、甲斐の桶狭間と呼ぶ人もいます。この時湯村山城から見張りが騎馬隊に指示を出したと言われています。湯村の陣場通りを下ると、現在の県立中央病院横に飯田河原の合戦の石碑が立っております。また、甲斐市の松島にある八幡神社にも、両軍とも多くの戦死者を出したこの戦いを供養する石碑が見られます。
「信玄の元湯」
飯田河原の合戦の時に積翠寺に避難していた信玄の母(大井夫人)は、同年10月10日に武田方の大勝の報告を聞き、安堵して男児を出産しました。これが言わずと知れた戦国の名将武田信玄の誕生です。信玄は戦が得意でありましたが、一生のうち負け戦に近い苦い勝利というものを二回経験しています。実は二回とも相手は村上義清で、その一回目の大敗である上田原の合戦の後その傷を癒すために湯村温泉(当時は島の湯と呼ばれていました)で30日間の湯治をしたと伝えられています。もっとも当時は躑躅ヶ崎の館から湯村温泉が肉眼で見えたと思いますので、隠し湯というより表湯という感じだったでしょう。甲陽軍鑑によれば塩尻峠の戦い後にも信玄自らが湯治をしたと記されています。新田次郎の小説には第2回川中島の合戦の後、湖衣姫を労咳(結核)で失い、信玄自らも長い陣中生活で弱った身体を志磨の湯(湯村温泉)で癒すシーンが登場し、以降戦のあるなしに関わらず志磨の湯から躑躅ヶ崎の館の軍議に出席するようになり事実上の住まいのように描かれています。湖衣姫という名は新田次郎の「武田信玄」の中に登場する諏訪のお姫様(諏訪御料人。御寮人とも)の名で、作者が諏訪の出身であることなどから、諏訪湖のイメージで名づけられたと言われております。また、井上靖の「風林火山」の中に登場する諏訪御料人の名は由布姫といい、作者が大分県の由布院(現在は湯布院)で由布岳を見ながら執筆したためと言われています。
「小池村と勝頼」
信玄の四男で家督を継いだ悲運の将として伝えられるが、そんな勝頼に似合わない湯治中のお話し。勝頼は諏訪御料人と文献に記された、信玄の側室との間の子と言われていますが、実際にはこの部分も小説の創作であるようです。同じように信玄の労咳も創作と言われています。
勝頼の歯髪塚は湯村温泉から徒歩15分位の法泉寺に収められております。
「鬼の湯」
信虎・信玄と仕えた武田家の猛将で甲陽五名臣・武田24将の一人。(信玄の異母弟でもある)夜襲が得意であったり、火付け盗賊の取り締まりの名手であったりしたことから、数々の鬼退治伝説が伝えられている。湯村温泉の鬼の湯伝説もその一つ。