塩澤寺のとなりに、ホテル弘法湯があります。その裏手には、杖の湯跡があります。
大同3年(808年)弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊りました。 道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。 大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれています。
「杖の湯」「弘法杖」といわれ、いまにその名残があります。 旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれています。
谷の湯と馬の湯 塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下った柳屋とナック湯村(元富士野屋)の間に谷の湯という湯がありました。 とても湯量が豊富で塩辛い温泉でした。 このことから湯川のほとりで塩が取れることから塩澤寺という名前になったのでしょう。 山国で塩が貴重だったことから越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という諺からも分かるように湯村から今の横沢迄を塩澤と呼んでいた時もあり、今の塩部はその頃の名残です。 又は、当時塩を分けた場所だから塩分(しおべ)と呼んで後に塩部となったという話もありますが信憑性は?です。
中国の高層大覚禅師(蘭渓道隆)が日本に招かれ、信濃(長野)に留まっていた時、甲斐の国に名湯が湧くから開くがよいという夢をみて、甲斐に入り塩澤寺で滞在していると、芦の生えた谷間から湯煙がたつのをみて芦を刈ってみると果たして湯が湧いていた。 貞和3年(1347年)のことであるといわれています。
この谷の湯は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにしました。ところがこの水は付近で田んぼや畑ををしている処へ入ってしまい。 作物に悪い影響が出てしまいました。 怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こりました。 人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めました。 人々は争いをやめてこの様を眺めていました。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうです。
このお話よりかなりあと、今のJR(旧国鉄)が中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石をしました。それが今の石切場跡ですが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていました。 石を満載した馬車を引く馬はこの馬の湯を使っていたようです。
中央線の甲府までの開通は1903年(明治36年)で、昭和30年頃まではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうです。
明治12年に湯村温泉から県令藤村紫朗に提出させた「温泉開湯御許可願」によりますと、湯村の湯は人や牛馬の腫れ物や筋肉の痛みに効くので、日々、人と牛馬が群っていたそうです。
1里~3里も離れたところからも多数の牛馬が入浴のためにやってきたといいますから、農耕や輸送で疲労した牛馬をリフレッシュさせる目的で入浴させたものと考えられます。
この許可願でも、すみやかに開湯すれば、牛馬が助かるといっています。
このような許可願を出したのは、農業を目的とした人馬の通行に支障が出るほどにたくさんの牛馬が温泉に連れてこられたためめで、これを知った県がこれらの温泉入浴を差し止めたからです。